民主主義者の矜持

大政翼賛会を思い起こさせる事態だ。背筋が凍りつくような思いを抑えられなかった。
国会に欠席を続け、懲罰処分の陳謝に応じなかったガーシーこと東谷義和議員(政治家女子48党)が3月15日、参議院本会議で除名され、議員資格を失った。
国会議員の「除名」は72年前の1951年以来、現行憲法下では3人目となる。参議院懲罰委員会は14日、最も重い処分である「除名」とすることを全会一致で決定していた。
本会議での記名による採決の結果は出席236人のうち、賛成が235、反対は政治家女子48党の1。「除名」に必要な3分の2以上の賛成多数で処分が決定した。
主権者が選挙で選んだ国民の代表である国会議員。その職を奪う採決でこれほどまでに鮮やかな対比が生じる。あまりにもすんなり決まった。現在、国権の最高機関で議場を埋める人々の心性はいかなるものなのか。

一方でガーシー氏が所属した政党名もなかなかのものだ。何しろ政治家女子48党である。
陳謝が予定されていた3月8日の参議院本会議をガーシー氏が欠席。旧NHK党の立花孝志党首は引責辞任を表明し、党名変更を発表した。
「公共放送」を標榜するNHKの問題点を白日の下にさらしてきたワンイシュー政党のこれまでの活動が無意味だったと言うつもりはない。だが、世情を騒がせ、面白がらせる状況作りに力を割いているかに見えるのはどうか。これでは選挙民を愚弄していると言われても仕方あるまい。

現在の法制では18歳以上の国民に選挙権が与えられている。できるだけ多くの有権者が投票を通じて意思表明をすべきだ。だが、その結果、騒がせ、面白がらせた勢力が伸長することもある。選挙が持つ一つの側面だ。日本国の主権者として全ての国民は自覚しておく必要があるだろう。

代議制(間接民主主義)において選挙は確かに重要な部分を占めている。しかし、議員は期待する対象ではない。議会に送り出した以上、有権者は議員が何をしているのかを監視しなければならない。除名騒動の傍らでは高市早苗・経済安全保障担当大臣をめぐる問題も浮上した。放送法における「政治的公平」の解釈変更に関わる問題である。議員辞職ありやなしやの綱引きが続いた。
立憲民主党議員による質問への答弁の中で根拠として示した文書を高市氏が「捏造」と指摘。捏造でなければ、「大臣も議員も辞める」と明言した。
高市氏は以前、地元・奈良県知事選で保守分裂を引き起こしており、自民党内の 政争との見方もある。文書の出どころについては総務省内の旧自治省と旧郵政省の相克が影響しているようだ。省益ありきで動く官僚が8年前の話をほじくり出したのだろうか。
野党と主流メディアの攻め手はある意味でワンパターン。高市氏の言葉尻を捉えるばかりだ。ここでも疑惑が高まり、大ごとになるほうが面白いとの心理が働く。良識の府と呼ばれた参議院の矜持はどこへ行ったのだろうか。

今年は選挙の年だ。3月下旬からは統一地方選挙の火蓋が切られ、4月上旬には衆参の補欠選挙も行われる。与野党の攻防は選挙戦の動向をにらんだものに見える。国会の場がどういう力学で動いているのか。あらためて明らかになった。省庁が仕掛け、勢力を広げたい野党がそれに乗っかった格好だ。時を同じくして北朝鮮は日本海に向けてミサイルを発射している。国政の場で今、議論すべきことは何なのか。

劇場型の政治は恐らく小泉純一郎元首相の時代あたりから始まった。国政の場をショー化し、敵対勢力を追い詰めていく。そんな単純なストーリーで国民を面白がらせればいい。そんな思惑が透けて見える。
議会制民主主義の存在意義を政府与党の政治家たちが率先して危うくしてきた。国会のありようは代議制の駄目さ加減を見せつけている。
だが、それでも私は英国の元首相チャーチルの箴言を想起せずにはいられない。
「民主主義は最悪の政治形態といわれてきた。他に試みられたあらゆる形態を除けば」
私たち人類がこれまで長い時間をかけ、多くの犠牲を払ってまで手に入れた制度。それが民主主義だ。自分たちで価値を毀損するような振る舞いは厳に慎むべきだろう。

民主主義の代替は何か。権威主義であり、独裁である。国際社会で米国の存在感が徐々に霞んでいくのに対し、中露が頭をもたげてきたのは皮肉だ。習近平は「皇帝」を志向しているし、プーチンの権力は「王朝」そのものだろう。両国の「繁栄」に憧憬の目を向ける第三世界の国々は決して少なくはない。

国際社会には憲法や議会、裁判所に相当するものはない。はっきり言えば、力がものをいう。そんなことは百も承知の上で私は言挙げしたい。独裁国家が大手を振って世界を牛耳るのは間違いだと。騒ぎを起こし、面白がらせればいい。そんな浅薄な思慮の下、国内で党利党略や省庁間の縄張り意識丸出しで立ち回るのと構図は変わらない。騒ぎを面白がるのは人間の弱さだ。大衆文化にはそうした面も確かにある。だが、それ一色になっては危うい。肝心なことが議論されないまま、事態は進展していく。

青臭いと笑われるかもしれない。それでも世界は本来、理性によって動いていくべきものだと私は信じる。正しい理性を「徳」と呼ぶのだろう。愛や思いやりは共感といえる。理性と共感によって人間を進歩させていく。これこそが啓蒙主義の基底である。
決して真新しい知見ではない。それどころか、古めかしい部類に入るだろう。現に理性で物事を律していく啓蒙主義は明らかに危機に瀕している。

啓蒙主義は西欧の知恵の一つだ。先人たちは多くの血を流し、それを手にした。
『21世紀の啓蒙』『暴力の人類史』などの著作で知られる米国の心理学者スティーブン・ピンカーは2021年、『人はどこまで合理的か』を上梓。全米でベストセラーとなった。東洋の島国で暮らす身にしてみれば、少々身勝手な主張も感じられる本だ。だが、現時点で西欧文明の頂の一つを成す論考を示してもいる。
同書は人類について2つの点を指摘する。1つは人間の合理性には確かにとても大きな力があること。もう1つは、人間は常に合理的なわけではなく、注意を怠ればたちまち非合理に陥ることだ。
後者は2022年2月のロシアによるウクライナ侵攻で証明された。しかも、戦車で国境を蹂躙するというこの上なく古色蒼然たる形でだ。
ピンカーはクリミアの状況には言及していた。『人はどこまで合理的か』の邦訳の刊行は同年6月。誠に皮肉な流れと言わざるを得ない。
だが、世界は決して暗黒には向かっていない。私はそう信じる。啓蒙主義によって歴史が積み重ねられた結果、どれだけ多くのものを私たち人類が享受できているか。答えは明かだろう。虚無的な思考でそうした成果を粉砕するのは間違っている。

散歩の途中で犬が吠えてきたとする。そこで自分も四つん這いになって吠え返してしまってはもはや人間ではなくなる。決して笑い話ではない。ともすると、人間は理性や徳性とはかけ離れた言動に傾きかねない面があるようだ。
現在の諸制度が完全だとは思わない。不備な点はあるだろう。だが、私たちの暮らしは少しずつでもよくなってきている。少なからぬ人々が充足した生活を送れているのは現実だ。人類は決して暗黒には向かっていない。私はその立場を取りたい。
吠え返すのではなく、知恵のある対処をしたい。その知恵はどこにあるのだろうう。私たちはどんな行為をすべきなのか。上から目線といえば、そうかもしれない。ただ、視野を広くするためには立ち上がって周囲を見渡す必要がある。その意味では確かに「上から目線」そのものではある。

精度の限界を見極めた上で、どういう態度を取るのか。そんなことをみんなで茶の間で話題にできるくらいのゆとりは持っていたい。それが叶うのであれば、ガーシー騒動や高市問題も一石を投じたといえるだろう。
大袈裟に捉えれば、民主主義や啓蒙主義は曲がり角に来ている。だが、正しい理性と共感の心を持つことで人類は繁栄の方向に進んでいける。その動き自体を否定すべきではない。いかなる理由があろうとも、人間は犬に吠え返してはならないのだ。
そうした知見をより多くの人々が常識とするためにガーシー騒動や高市問題が起きたのではないか。

すでに滅びかかっている啓蒙主義だが、私たちの社会の根底として維持すべきだろう。
西欧社会も根幹の一つである啓蒙主義を 捨て去ってはならない。現実を見通せば、油断のならないさまざまな動きがある。
金融資本主義の暴力性はいうまでもない。世界の三大商品は石油と武器、麻薬だという。そこから利益を生むために世界各地でいろいろな事象が勃発している。目先の儲けのために世界の趨勢がそちら側に向かって行くようなことがあってはならない。

全てをわかった上でうまくやり抜く賢明さを堅持する必要がある。吠えかかってくる犬と同じ土俵に上ってはならない。理性と共感を手放さないことだ。今こそ、「人間として立ち上がる」ときだろう。

Photo “Angry dog” licensed under the CC0.

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