足利にて

江戸蕎麦の通人が集う「江戸ソバリエ協会」なる組織がある。かつて私も名を連ねていた。
活動の内容といえば、まずは耳学問。蕎麦をめぐる数々のプロフェッショナルたち──名店のご主人や粉、醤油、薬味、日本酒などの専門家を呼んで講義をしてもらう。
もちろん、蕎麦打ちの実技指導もある。私も以前、学んだ技術を自宅のキッチンで披露してみた。たちまち家中が粉だらけ。「もう二度と家では打たないで」と家人にきつく言い渡される始末だった。それからは食べることにのみ専念している。
先日、栃木県足利市を訪れた。目的は蕎麦だ。当地には更科を極めた逸品を供するこだわりの店がある。
「更科蕎麦」とは何か。一言で言えば、ソバの実のより内部にある胚乳の中心部の粉を使った蕎麦の名称。品のある白い麺が特徴だ。「御膳蕎麦」、あるいは「御前蕎麦」と呼ばれることもある。
ソバの実は外皮に近いほど色が濃い。香りが強く、たんぱく質(グルテン)を多く含んでいる。反対に中に近くなるほど色が白く、香りは弱まる。グルテンも少なくなり、代わりにでんぷんが多く含まれる。
実の中心部を使う更科蕎麦の味は一般に知られている「そばの香り」は少ない。一方でほんのりとした甘みと特有の風味がある。牽強付会かもしれないが、玄米と白米の関係にたとえてもいいだろう。
ソバの実の外皮を取り除き、製粉する。このとき、最初に挽き出されるのは種皮(甘皮)のある外側ではない。内側の中芯部分だ。
こうして最初に取れた粉を「一番粉」(「更科粉」「御膳粉」)と呼ぶ。次に挽き出される中層部が「二番粉」、さらに外層の「三番粉」、甘皮部分を多く含む「末粉」(「表層粉」「四番粉」)と続く。甘皮から全てを丸ごと挽いた粉は「挽きぐるみ」(「全層粉」)と呼ばれる。最も白いのが一番粉。数字の順に色は濃くなり、香りも強まる。繰り返しになるが、一番粉を使ったものが更科蕎麦だ。
この粉は「つなぎ」となるたんぱく質が少なく、でんぷんが多い。打つ際には小麦粉を加えるか、湯練りする必要がある。
足利の地で至高の更科蕎麦を作り続ける。その店は「蕎遊庵」という。あるテレビで番組で知り、矢も盾もたまらず、現地に向かった。店舗は織姫神社に通じる参道の途上にある。織姫神社は1200年以上の伝統と歴史を持つ。織姫山の中腹に位置する朱塗りの社殿は当地を代表する名勝だ。
坂道はなかなか骨が折れる。息を切らしながら何とか登り切った。一番乗り。開店と同時に先頭で入れた。
注文の品は「さらしな生一本」。すでに説明した通り、更科蕎麦はコメでいえば、「白米」に当たる。見た目は確かに白い。だが、蕎遊庵の品はさすがに並外れていた。白さを通り越して透明感すらある。見た目は白滝そのものだ。
蒸籠に載せられた様は一幅の日本画のようだ。蕎麦が到達し得る極致を感じさせる。
「すぐに召し上がってください」促されるまでもなく、蒸篭と冷や汁仕立ての二品あっと言う間にいただいた。
風味、喉越し、これぞ「究極のさらしな」と呼ぶにふさわしい。至福の一時。

蕎遊庵はその日の蕎麦粉がなくなれば、店じまいとなる。参道を降りていくと、顕彰碑が目についた。地域に力を尽くした人々の功績を称えている。
足利は織物で古くから栄えた。蕎遊庵の先にある織姫神社は足利織物の守護神だ。戦後は人造絹糸の技術に支えられた繊維産業が隆盛を誇る。輸出品の花形として一時は大きく発展を遂げた。
ところが、1950年代半ばに入ると、国産繊維産業の躍進に待ったの声がかかる。ベトナム戦争開戦を機に米国は繊維製品の関税を引き下げた。その後、安価な日本製品の輸入が激増。米国との間に「繊維摩擦」が生じたのだ。
1955年に始まった日米繊維交渉は宮澤喜一通産大臣時代に一旦は決裂。後を継いだ田中角栄の政治決断により、1971年に決着を見る。米側の要求を飲み、日本製品の輸出を規制する代わりに日本政府は繊維業界の損失を補填した。
足利の繊維産業も大打撃を受ける。だが、当時の日本には気概があった。こんなことで落ち込んでいる場合ではない。
「創意工夫で難局を乗り切ろう」そんな思いから己を鼓舞するため、功労者を顕彰するレリーフを作った。これが今も残る石碑である。創意工夫を継承する。難局でひどい目に合っているけども、我々は決して忘れない。そんな強い意思が刻まれている。
1970年6月22日から24日にかけてワシントンD.C.で開かれた宮澤と米国のスタンズ商務長官の会談。スタンズは前年の佐藤栄作首相とニクソン大統領の会談で合意された「沖縄返還密約」を基に交渉を進めた。宮澤は密約の存在を否定する佐藤の主張に沿うしかなかった。
決裂は必然だった。民主党政権下の2012年7月31日付で外務省が公開した外交文書には「沖縄返還密約」が含まれていた。

足利訪問にはもう一つの目的があった。蕎麦だけ食して「ああ、おいしかった」で帰京するのはあまりに浅薄だろう。
足利といえば、やはり足利学校である。平安時代、もしくは鎌倉時代に創建された中世の高等教育機関。一説には小野篁によって832年には建学されたともいう。それが事実であれば、1088年創立で欧州最古といわれるボローニャ大学よりも古い。
足利学校の起源については諸説あり、いまだ明らかにはなっていない。現場にある説明書きには控えめに「日本最古」と記してあった。
1549年に日本を訪れたイエズス会の宣教師・ザビエル。彼は足利の地を訪れてはいないものの、足利学校の存在自体は知っていた。
インドの布教本部に宛てた書簡に「日本国中最も大にして最も有名な坂東のアカデミー」と綴っている。イエズス会創設メンバーの一人が記述してくれたおかげで足利学校の名は世界に知れ渡った。
足利学校は室町時代から戦国時代にかけて関東地方で最高学府として君臨した。学生は全国から集まっており、沖縄出身者の名前も記録に残されているという。
兵法と占術に関しては特に膨大な資料を収集していたことで知られる。兵法や占術といっても、決して空理空論ではない。いずれも経験値に基づいた学問だ。占術は未来をどう解読するか、兵法は現実にどう対応するかを追求する。
「我田引水が過ぎる」と笑われるかもしれない。私は足利学校で講じられていた兵法や占術はマーケティングと地続きだと感じている。
何度も繰り返してきた通り、マーケティングは戦後米国から日本に輸入された技術の体系だ。需要動向を見て未来を予測し、現実にどう対処すべきかを考える。マーケティングにはそんな側面もある。足利学校の学生たちはマーケティングの真髄を学んでいたのかもしれない。
足利学校は戦国時代の終焉とともに衰退していった。徳川家康によって江戸幕府が開かれ、天下泰平の世を迎える。幕藩体制下で大名はこぞって藩校を整備。町人も寺子屋で学べるようになった。学びの場が遍く広がったことで足利学校は存在意義を失っていく。皮肉な話だ。
下克上がうたわれた戦乱の世。それでも全国から学生を集め、学問に勤しんでいた場があった。このことを忘れてはなるまい。

フランスで暴動が続いている。フランス政府が2023年3月16日、年金受給年齢を62歳から64歳に引き上げる改革法案を議会での投票を経ずに強行採択。これを受け、パリでは大規模な抗議運動が起こり、警察との衝突も発生した。
日本でも同じようなことがあった。2006年6月当時、コンピューターに年金番号があるものの、基礎年金番号に統合・整理されていない記録が約5000万件あることが判明。社会保険庁が年金記録をきちんと管理していないことが指摘された。世に言う「消えた年金問題」である。
今に至るも、この問題は解決していない。時間の経過とともにうやむやにされただけだ。行政官僚はどこまでも身内に甘い。フランスなら、本当に革命が起きていただろう。日本人はおとなしすぎる。
もちろん、暴力を肯定するつもりはない。だが、片付いていない政治課題について国を挙げてダンマリでいいのか。少なくともフランス国民は声を上げた。

もともと野蛮だった国柄を克服し、戦後いい国になったのか。誰かの思惑で決して逆らわないよう仕向けられているのか。
戦国の世でも勉学を忘れなかった祖先の足跡を足利で確認したあと、報道に触れてつくづく考え込んでしまった。

Photo ©京浜にけ 2010 Licenced under the CC BY-SA 3.0.

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