西欧の本質・分割統治

3月初旬、新聞やテレビを見ると、「元徴用工問題が政治決着へ」との報道でもちきりだった。

「元徴用工」とは戦前に日本へと強制連行され強制労働に従事させられたと主張する韓国人だ。その一部が日本企業に対し損害賠償の支払いを求めて韓国の裁判所に訴訟を提起。2018年10月30日に大法院(韓国の最高裁判所)が被告(新日鉄住金)の上告を棄却し、原告の勝訴を確定させる判決を言い渡して以来、同様の判決が相次いでいた。

日本政府は「元徴用工」なる呼称は用いない。「旧朝鮮半島出身労働者」と呼び習わしてきた。判決についても「1965年の日韓請求権協定により解決済みの問題だ」として強く反発。この問題は日韓両国の間で懸案となってきた。

韓国政府が6日に示した解決策とは、日本企業に命じられた合計約4億円に上る賠償金を、韓国の財団が日本企業に代わって賠償金を支払うというものだ。岸田文雄首相は外相時代の2015年、慰安婦問題の「不可逆的な解決」を確認した日韓合意を韓国側から反故にされている。16日に日本を訪問する尹錫悦・韓国大統領と解決に向けた会談に臨む。

内閣発足以来、岸田氏は何も考えていないように見えてならなかった。だが、自身が長く取り組んだ課題には真摯な姿勢がのぞく。外相時代から粘り強く解決を目指してきたのだろう。一時は戦後最悪とまでいわれた日韓関係が改善に向かうのは好ましいことに違いない。だが、一方で私の中には手放しで喜べない思いも残っている。

このコラムで再三指摘してきた通り、日本は米国の「保護領」である。韓国もまた属国の地位に甘んじてきた。両国の関係には「宗主国」の意向が常に影を落としている。日韓の政治課題が解決に向けて一気に進展した。これは米国の側にもそれを望む事情があったことを意味する。

2月18日、北朝鮮はICBM(大陸間弾道ミサイル)級の弾道ミサイル1発を発射。北海道渡島大島の西方約200キロの日本のEEZ(排他的経済水域)内の日本海に落下したと推定される。弾頭の重量などによっては射程距離は1万4000キロを超え、米国全土が射程に含まれる可能性があるという。この出来事が徴用工問題に影響を及ぼした可能性は否定できないだろう。

覇権国家としての米国の世界戦略は明快だ。地政学的に最重要とみられる極東と中東、欧州で影響力を維持する。3つの地域では何らかの問題が常にあり、片付かない状況を作る。地域における覇権はどの国にも握らせず、最終的には米国の同意がなければ安寧が図れないように仕向ける。

東アジア情勢もこうした米国の思惑に振り回され続けてきた。日本は現在、韓国や北朝鮮、中国、ロシアといった周辺諸国と必ずしも穏当な関係にない。米国にとっては誠に好都合な情勢である。

北方領土問題に関しては1956年の「日ソ共同宣言」締結の際、米国からの恫喝で四島返還を主張せざるを得なかった。1971年の沖縄返還協定締結をめぐっては米軍が負担すべき土地原状回復費などを日本側が肩代わりすることなどを取り決めた密約が存在した。日本外交において何かあるたびに、米国は横槍を入れてきたのだ。それにしても宗主国の姿勢はあからさまだった。自分の都合で東アジアに出来させていた問題にもかかわらず、火の粉が我が身に及びそうになると、あっさりと引っ込める。裏を返せば、北朝鮮の核はいよいよ米国にとっての脅威になってきている。

いつものように根本原理に立ち返って考えてみたい。米国が世界各地でしてきたことは「分割統治」そのものだ。諍いを巻き起こすことで当事者たちの勢力を弱らせる。自分を頼ってこざるを得ない状況を生み出し、支配する。15世紀中盤に始まる大航海時代以来、欧州列強が蓄えてきた征服と搾取のための知恵は今も十分に有効なようだ。大航海時代に富を蓄積し、英国をはじめとする欧州諸国はいち早く近代化への道筋をつけた。これらの列強に比べれば、米国は確かに若い国だ。だが、この国には西欧文明の極致がある。世界を支配する公理に則った動きをしていることは理解しておいたほうがいいだろう。

昨年5月に就任した尹大統領は任期を4年以上残している。米国としては日韓両国が経済の上では一枚岩となり、防波堤として機能するよう仕向けたのだろう。確かに手下が仲間割れしている場合ではない。親分の喉元にまで匕首が突きつけられているのだ。

とはいえ、にわかに高まった政治決着の機運を素直に歓迎する気にはなれない。宗主国の思惑は見え透いているからだ。分割統治という基本理念は今後も忘れてはなるまい。

分割統治的なものの見方は欧米の文化や風俗の至るところに染み込んでいる。マーケティングを学んできた者として、その点は理解しているつもりだ。日本語に置き換えれば、「要素還元」とでも言うのだろうか。どんなに複雑な物事であっても、まずは構成する要素に分解する。それらの個別の要素だけを解明できれば、元の複雑な物事全体の性質や振る舞いもすべて理解できるのではないか。そうした考え方である。私の経験からいっても、要素還元は現実の問題に対処する上では非常に便利。基本に則っている。

この要素還元は受験秀才の巣窟である霞が関にも深く浸透しているようだ。最近目にした報道で嫌気を感じたことがあった。確かに要素還元を用いた施策なのだろうが、日本人が本来持つ感覚からすると、あまりに人間味を欠いている。北海道の酪農家で生乳が余り、廃棄処分をせざるを得ない事態が起きている。そのため、政府は3月1日から生乳の生産抑制のため、乳牛の殺処分に対し1頭あたり15万円の助成金を出すことにした。

だが、一方で日本は昨年、製品重量で脱脂粉乳750トン(生乳換算5000トン)、バター7600トン(9万4000トン)、ホエイ4500トン(3万1000トン)、バターオイル500トン(7000トン)を輸入している。毎年、生乳換算で13・7万トンのバター・脱脂粉乳等を輸入する「カレントアクセス(現行輸入機会。ガット・ウルグアイラウンド農業合意に基づき、所定の輸入数量を維持すること)」が定められているからだという。

国際社会における約束事を軽視していいとは言わない。だが、カレントアクセスはそこまで律儀に守らなければならないものなのか。政治判断はできる。杓子定規に対応するのは奴隷根性丸出しではないか。

2014年にバターの不足が問題となり、国は生乳生産の増加を後押しした。だが、新型コロナウイルス感染症の影響で需要が減少。供給過剰となり、脱脂粉乳の在庫が増加した。このため、生乳が廃棄されているわけだ。

需要が減ったのなら、外国から買う分を減らせばいい。少し考えれば、誰でもわかる。だが、この国の行政はなぜかそうした発想には立てない。国内の酪農家にしわ寄せがいくことになる。

相手が気を悪くすると、面倒だ。どこかでそんな配慮が働いているのかもしれない。その結果、自動車の関税を上げられでもしたら、かなわない。酪農の現場で牛の乳を搾っている人の気持ちはどうでもいいのだろう。

政府の施策はマーケティングの原理に従えば、一応の理屈は立つ。確かにこれも要素還元だ。辻褄は合っている。だが、一方で私の中に眠っている東洋人的なものの見方が頭をもたげてくるのを抑えきれない。
輸入品に決して少なくない税金を投入する一方、自国の酪農家の生産能力を殺してしまう。分割統治の基本は霞が関でも功利的に使われている。戦後教育で重視されてきた結果だろう。

受験戦争を勝ち抜いた選良といっても、以前は随分趣が違ったものだ。子供時代に食べるための苦労を経験した人たちが政治家や官僚、経営者の中に多くいた。

今や日本の格差は固定されている。難関校や有名校に通う子弟は小さい頃から塾に通い、家庭教師をつけてもらえる環境にある者がほとんとだ。受験勉強以外の苦労を知らず、純粋培養された秀才たちは宗主国から分割統治への服従を要請されれば、必死で属国を演じようと立ち回る。

もう少し人間としての生き方を学んだ人たちが政策立案に携われば、この国の進路も多少は変わるのではないか。日本のトップリーダーはすでに私より若い。彼らは戦後教育を受け成長してきた。分割統治に慣れきった発想も教育の賜物なのだろう。日本は戦後一貫して常に片付きそうもないゴタゴタを背負わされてきた。国家としての総力がそうした問題への対処で削られていく。

このような構図をいみじくも喝破してみせた賢人がいる。英語による著作で禅文化を海外に紹介した仏教学者として知られる鈴木大拙である。
講演集『東洋の心』で大拙は分割統治に言及している。分割統治を英語に訳せば、「Divide and rule」。ラテン語では「Divide et impera」となる。同書で大拙は「Divide et impera」というラテン語の辞を引きながら、これこそが西欧の政治や軍事を形作る文明の根源であると鋭く説いた。『東洋の心』を読んだときの感銘はいまだに忘れがたい。戦後教育とは分割統治をされる側に相応しく、する側には便利なもののようだ。大拙はもちろん、分断が進む前の教育を受けている。

小学校から大学まで、日本の教育を受けていくと、自身の中で思考を深める機会はほぼなくなる。そうした仕組みが完成されて久しい。
明治政府は1872年、学制を発した。これは日本で初の近代教育制度を定めた法令である。富国強兵の歯車となる人材を量産する鋳型がここで形成された。兵隊や工場労働者を量産するための仕組みだ。1945年の敗戦以降も教育制度の骨組みは維持され、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)は統治しやすい人間を世に送り出していった。

その結果、誠に寂しい考えの持ち主が省庁の中枢で仕事をしている。もしかすると、彼らには分割統治の原理が見えていないのかもしれない。元徴用工問題を見ていると、「ああ、やられているな」と感じずにはいられない。

若い人に言っておきたいことがある。パソコンをはじめ、端末を使って思考をめぐらせる際にも要素還元は極めて有効である。だが、私たちが立ち向かわねばならない課題はそれほど単純ではない。階層状の構造をしていることも多い。今の言葉で言えば、レイヤーだ。もう少し深いレイヤーをめくっていけば、また違う考え方もある。特効薬を今ここで導き出すだけでは能がない。もう少し次元を深めて考えるのもいい。

牛乳の廃棄もそうだ。確かに理にかなってはいる。だが、食の安全や国防の観点から見たらどうなのか。倫理的に人間としてしていいことなのか。レイヤーにはいくつも下がある。下に行けば行くほど全体は一つでつながっている。

大拙に倣って日本人の中に東洋的でオルタナティブな知恵をよみがえらせてはどうだろうか。より下のレイヤーで物事を考える姿勢を復活させる。そうでもしないと、1頭いくらで牛を殺せと平気で言える人が世の中を動かすことをよしとしてしまいかねない。

Photo “American Flag” licensed under the CC0.

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