国葬に寄せて

2022年9月、私たちは二つの「国葬」を体験した。一つは英国で、もう一つは日本で行われたものだ。

英国の国葬は国王・エリザベス2世、日本のそれは安倍晋三元首相を送るために行われた。私はテレビ中継を通じて式典に注目した。
英国の国葬は9月19日、ロンドンのウェストミンスター寺院で執り行われた。まず感じたのは「儀式」が本来持つ力である。深く感じ入った。
エリザベス女王の国葬は何よりもまず宗教儀式だった。では、儀式とは何か。人間にはどうしても一代で伝えられないものがある。儀式化することで私たちの祖先はそれらを伝えてきた。いわば知恵をつなぐための仕掛け。儀式にはそんな力がある。
英国の国葬には完全な宗教儀式としての完成された力を見せつけられた。
英国は立憲君主制を敷いている。イングランドの統治者である国王が教会の首長も兼ねている点が英国国教会の最大の特徴である。
英国国教会はプロテスタントに区分されることもある。だが、他の諸派とは明らかに異なる点もある。
英国国教会は教義上の問題ではなく、ヘンリー8世の離婚という政治的な問題から分裂した。そのため、カトリック教会の教義自体は否定していない。典礼の上ではカトリック教会と共通する点も多い。
エリザベス女王の国葬にもその典礼の美点は感じられた。多様性への配慮も含め、完成されている。語弊があるかもしれないが、全体が一幕のオペラのような構成を取っていた。式典は「音楽劇」であり、ひと時も途切れることなく、音楽でつながっていく。
あまりに高すぎる完成度に、私は感銘を受けずにはいられなかった。もともと儀式に関心を持ってきた人間だからかもしれない。

では、我が国はどうであったか。安倍元首相の「国葬」は9月27日午後2時過ぎから東京・日本武道館で挙行された。
英国の例を見ても明らかなように、国家的な葬送儀礼は宗教的な背景なくして成立しない。その宗教も教義が確立されたものである必要がある。
だが、安倍元首相の「国葬」は無宗教で執り行われた。日本国の政府はいかなる宗教的背景をもってこの儀式を完成させ得るというのだろうか。私はその一点に関心を抱きながら、テレビ中継を眺めていた。
日本の伝統的宗教といえば、神道である。だが、「国葬」は神道の形式に則った形ではなかった。神主や宮司は出てこない。玉串の奉奠もなかった。
神道を背景にして国葬を行わない。このことの是非は問うまい。ただ、これだけは言えるだろう。神道に拠らない。この現実こそが日本の姿を映し出している。
日本におけるあらゆる儀式の頂点に位置するであろう「国葬」が思想的な背景、宗教観に基づいて行われない。いや、行えない。
果たしてそれでいいのだろうか。そんな心持ちにもさせられる。この国の真ん中には思想や哲学、宗教などない。まさに空洞なのだ。

一方で、今回の「国葬」に至る過程においては海外メディアが驚嘆する事態が出来していた。反対を叫ぶ人たちの存在と行動である。それを見る限り、私たちの社会は儀式を行う状況にはなかった。海外メディアにとってはかなり奇妙な光景だったのではないだろうか。
「国葬」の実施に当たっても反対が出ることがある。これもまた日本の現実である。
中心が空っぽ。そうした国のありようをどう考えればいいのだろう。「国葬」の背景に思想や哲学がない。多くの国ではそうした領域を宗教が担ってきた。どうやら日本ではそうではないらしい。

安倍元首相の死を「国葬」という形で悼む。これを決めたのは岸田文雄首相だ。
日本で本来、「国葬」と呼べるのは歴代天皇の葬儀だろう。「大喪の礼」は実質的に「国葬」と言っていい。皇室が依拠する宗教は神道。明確である。明確でなければ、「国葬」など本来は行えないはずなのだ。
岸田内閣は「国葬」の根拠を法律に求めた。内閣府設置法(1999年制定)第4条第3項33号で内閣府の所掌事務とされている「国の儀式」として閣議決定をすれば実施は可能。これが政府の示した見解だ。だが、内閣府設置法は内閣府の行う所掌事務を定めた法律に過ぎない。「国の儀式」に「国葬」が含まれるとの法的根拠もない。
そもそもこの国の法律の大半は官僚組織が作っている。吹けば飛ぶような誠に軽いものだ。政権の側で事情が変われば、コロコロ変わる。本来の儀式のあり方はそれほど浅薄なものではない。
701年に施行された大宝律令が「日本」という国号を定めて以来、1300年余り。その核をなすものは何だったのか。そうした背景を持った儀式にできないのであれば、「国葬」など行うべきではなかった。
岸田首相が示した「国葬」実施の方向性に対し、官僚は恐らく「やってもいい」と反応したのだろう。実際のところ、出来もしないのに「国葬」と決めた。
昭和を代表するスター、石原裕次郎や美空ひばりが亡くなったとき、葬儀には別れを惜しむファンが大挙して押し寄せた。我が国の憲政史上最長の在任記録を残した安倍元首相の「国葬」でも同じような現象が起こるのではないか。岸田首相には「いける」との胸算用があったのだろう。
もちろん、実利的な算盤も弾いた。安倍元首相の死は利用価値が高い。経済成長の起爆剤になるとも見込んだに違いない。善意に解釈すれば、そうなる。
だが、私のように儀式にこだわる立場からすれば、とんでもない話だ。国の根幹であるべき思想や哲学を明示できないのであれば、「国葬」などできない。やるべきでもない。

物事を決めるときには誰しも一度くらい深呼吸をするものだ。ましてや一国を率いるリーダーなら、なおさらだろう。岸田首相は「国葬」を決断するとき、深呼吸はしただろうか。恐らくしてはいまい。
世論調査の数字を見ても、今回の「国葬」には逆風が吹いている。その大きな要因が世界平和統一家庭連合(旧統一教会)の問題であるのは事実だろう。
もとより私は旧統一教会の信者ではない。この問題に関して何かを述べる資格や立場も持ち合わせてはいない。
ただ、マーケターの端くれとして、このカルト集団には大きな危惧を抱いてきた。私の危惧は「霊感商法」と呼ばれる彼らの宗教ビジネスに集約されるものだ。
「商法」とはつまり、マーケティングである。頭に「霊感」とついている。これはマーケティングの理論が踏み込んではいけない領域に他ならない。名称が象徴的に本質を明らかにしている。
「ヒトツボ3000万円。ただし、土地ではない」
こんな不謹慎なブラックジョークまで囁かれるありさまだ。
霊感商法はマーケティングの手法を使ってはいけない分野で使っている最たる例だろう。「商法」である以上、消費者保護法で規制する立て付けは正しい。

「国葬」をめぐるあれこれは日本の実像を浮かび上がらせた。精神性の欠落はいかんともし難いようだ。
敗戦後、我が国は復興に努め、高度成長期からバブル経済まで駆け抜けた。日本経済を支えた企業群。その目的とは何だったか。利潤追求、つまりは金儲け。当時はそう信じられていたし、その旗印の下、私たちは突き進んできた面がある。
だが、企業の目的は本当に金儲けなのか。マーケティングのプロとしては「否」と答えたい。企業は利潤を追求するためではなく、価値を創造するためにこそ存在する。
日本の中心に存在する空洞。それを埋め合わせるのは正しい意味での企業の活動ではないだろうか。日本が敗れ続けてきた30年間の動きを仔細に見つめてみれば、それは明らかになる。
マーケティングの世界ではすでに確立されている手法だ。主だった経済指標はもちろん、法制度、行政、社会、人口、技術革新など、さまざまな面で総合的に動きを追跡し、検証する。
中でも代表的なものがPEST分析である。経営学者のフィリップ・コトラーが考案した。以下の4つの環境要因からマクロ環境の分析を行う。

  • Politics(政治的要因)
  • Economy(経済的要因)
  • Society(社会的要因)
  • Technology(技術的要因)

4つの環境要因の頭文字を取って分析PESTと名付けられた。
各環境要因の具体例には以下のようなものが挙げられる。

  • 政治的要因: 法律や条例、規制、公的支援などの動向
  • 経済的要因: 景気や経済成長、物価などの動向
  • 社会的要因: 人口動態やライフスタイル、生活者意識などの動向
  • 技術的要因: 商品開発や生産、あるいはマーケティングについての技術動向

マーケターから見れば、この手法自体は至って初歩的なものだ。財務官僚並みの見識は持ち合わせていなくても、誰でも活用できる。
誠に卑近ではあるが、一つの例を挙げておく。小売業は価値の創造に向かわない限り、飯を食ってはいけない。わかる人にはわかっている話だ。
メーカーから卸した商品をそのまま売っているだけでは価格の競争に陥ってしまう。インスタントラーメンを筆頭に食品や日用品の大半がそうだ。安く売ることだけを考え、競争優位の罠にはまっていく。
一見したところ、安売りで伸びたかに見える企業もあった。だが、実態をよく観察してみると、決してそうではないとわかる。
インスタントラーメンにしても、来た商品を店頭に並べるだけではない。おいしい食べ方を提案している。スープと麺は別に調理する、メンマを添えるといったささやかなアイデアである。
ひと頃、「ものからことへ」というフレーズがもてはやされた。意味することを噛み砕いて表現すれば、下記のようになるだろう。
メーカーから手渡された商品。それらはあくまでネタに過ぎない。商品を通じてよりよい暮らしをもたらすにはどうすればいいのか。そのための提案をする。これこそが小売業における価値創造だ。
価値の創造は国を挙げて行うビッグプロジェクトばかりではない。庶民にも加わる余地がある。現に江戸時代、市井の民たちはそうしていた。
平賀源内が考案したエレキテル。徳川幕府が後押しをし、大々的に開発・普及を図っていれば、18世紀の日本各地に電柱が立ち、電線が張り巡らされていたかもしれない。だが、現実は違った。所詮は見世物小屋の出し物止まりで終わっている。庶民の持つ力の素晴らしさと限界。その両方を見せつけられる事例だ。

暮らし向きを「素敵だな」と思わせる。そんな力を発揮できないものか。観光立国のためにも恐らく有益だろう。日本の津々浦々で価値創造に走り始める時だ。
国家にも役割がある。公的な投資によって価値の創造を後押しするのだ。バイオや宇宙開発、AIなど、テーマはいくらでもある。

アベノミクスは「三本の矢」を掲げた。第1の矢は「大胆な金融政策」、第2が「機動的な財政政策」、第3は「民間投資を喚起する成長戦略」。このうち、もっとも積極的に施行されたのは第1の矢だった。第3の矢だけは絵に描いた餅に終わっている。つまり、私たちは価値の創造に至れなかったわけだ。
安倍元首相が成し得なかった施策。そこへの答えはマーケティングを活用し、国を挙げて価値創造に邁進することだ。それこそが故人の魂に捧げる言葉となる。

Cover photo “故安倍晋三国葬儀で追悼の辞を述べる岸田文雄” ©首相官邸. Licensed under the CC BY 4.0.

  • URLをコピーしました!