哲学の不在

テレビを眺めていると、防衛費をめぐる報道でもちきりのようだ。
国の予算に関しては背後にいつも財務省の思惑を感じてしまう。
防衛予算も例外ではあるまい。
どう見ても財務官僚がケチっている。ここではその話をするつもりはない。

最近のニュースで注目すべきものがもう一つある。保育士の暴行や虐待の事件だ。
この問題の背景には待遇の問題がある。これは介護職も同様。
激務の割に給与は低い水準に抑えられている。中には子供や高齢者を邪険に扱う例も出てくるだろう。
やむを得ない面もある。高齢者の世話は特に大変だ。わがままな人もいて、非常に手がかかる。
現場で働く若い人たちが嫌になる方向に事態が進んでいくこともまれではなさそうだ。

保育園児の虐待も同じだ。
厚生労働省所管の予算を削れば、環境はもっと悪くなるだろう。

高齢者の生き方において日本と他の先進国には明確な違いがある。
欧米では「寝たきり」の老人はまずいない。
誤解を恐れずに記せば、そうなる前に死んでしまうからだ。
日本の終末期医療に見られるように、チューブだらけで延命を図る。
そんな事態は諸外国では考えられない。
国民皆保険という世界に誇れる制度のおかげで日本人は歪な形で末期を迎えなければならない。

他の先進国では高齢者が自分で食事を取れない状態になれば、自ずと死を選ばざるを得ない。
これが当たり前の捉え方だ。

そんなことを考えるようになったのには、ささやかな経験が影響している。
私の母親は介護付きの高齢者向けマンションで余生を送った。
温泉があり、風光明媚な地にある。もちろん、三度の食事も供される。
亡父も同じマンションに入居していた。だが、彼は81歳で亡くなる。
父より8つ年下の母はすることがなくなった。

母にとって残された日々は幸福なものだったようだ。
彼女は本名の「竹田登美子」名義で5冊ほど詩集を上梓した。
「詩壇の芥川賞」とも呼ばれる現代詩の新人賞・H氏賞。
母は長きにわたり、この賞を主催する日本現代詩人会の会員として毎年、選考で一票を投じていた。
彼女の元には全国から新しい詩集が送られてくる。
捨てずに取り置かれた山のような本に囲まれながら母は身罷った。
行年百歳と墓石に刻まれている。

母を送り、私は感慨もひとしおだった。
それには理由がある。

母は90を超えても頭の働きは極めて明晰だった。
だが、90代半ばで脳血管の病気を患う。
病には勝てず、首から下は不自由になってしまった。

母には24時間一緒にいてくれる人が必要だ。
私にはきょうだいがいない。
介護のプロである日系ブラジル人女性を雇い、一緒に暮らしてもらうことにした。

彼女は私とほぼ同年輩。仕事ぶりは完璧だった。風呂まで一緒に入る。
私には絶対にできないケアを全うしてくれた。

尾籠な話で恐縮だが、母の介護にはかなりの費用がかかった。
彼女が入居するマンションは熱海市にある。
東京都内に比べれば、介護職の人件費は安くつく。

出費を少しでも抑えられればと、私は介護保険を使った。
直に払うよりは私個人の負担は若干だが、軽減される。
だが、支払い全体の額は倍加されることになる。

母の要介護度は「5」だった。
調査に来られた人への受け答えは実にしっかりしている。
「5」が取れるかどうか、心配もあった。
介護度の知らせを受けたとき、関与者全員が拍手をしたのを覚えている。

母はプライドの高い人だった。
日常生活の世話を他人に焼いてもらう。
そのことをどこまでよしとしていただろうか。

高齢者向けマンションでの完全介護について、「いつ終わってもいい」と母は私に迫っていた。
単なる私の自己満足なのかもしれない。彼女自身がどこまで納得していたかは最期まで疑問だった。
「内心忸怩たる思い」とはまさにこのことだ。
国のおかげで誠に消耗している。

母一人を介護することでたくさんの人が潤っている。
これは現実だ。福祉は産業でもある。
日本経済にも少なからぬ影響を及ぼしているのだろう。
だが、国家として健全といえるだろうか。
高齢者の医療・介護に関して、現在のような予算の使い方は見直す必要があるだろう。

NHKを見ていて、思わず膝を打ったことがある。
東日本大震災の折、津波に襲われた高齢女性に取材したドキュメンタリー番組だった。
彼女は自力で山に上がり、すんでのところで助かったという。
「津波が来たとき、お婆さんがいても、置いて逃げるのが当たり前」
彼女は淡々とそう語っていた。本心からそう思っているのだろう。
素晴らしい方ではないか。

「津波てんでんこ」という言葉が示す通り、津波の襲来はあっという間の出来事だ。
周囲の人間を構ういとまはない。各自がてんでばらばらに逃げるしかないのだ。
三陸地方では、そうして津波の被害から共同体を守ってきた。
高齢者を助けるために若者が二人犠牲になる。
そんなことでは村は立ち行かなくなってしまう。

番組で彼女が口にしたのは正論だ。だが、誰もが言えることではない。
特に昨今の日本のように偽善で覆われた社会ではそうだろう。

高齢者の医療・介護の分野で日本は今、彼女の発言とは反対の行いをしている。
不合理といってもいい予算の使い方だ。

欧米では多くの高齢者が自身の尊厳を守って死んでいく。
死生観が明確な社会が背景にあるので、コンセンサスは得やすい。

なぜ、欧米では死生観が確立されているのか。
答えは簡単。宗教があるからだ。
キリスト教の是非は別にして、教義に基づいて死生観が規定されている。

現在、10カ国以上の国・地域で自殺幇助が認められている。
積極的安楽死が合法化されているのはオランダ、ルクセンブルク、ベルギー、カナダ、コロンビア、スペインなどだ。

日本では安楽死の議論はまだタブー視される傾向にある。
ひとたび口にすれば、「スピ系」呼ばわりされかねない。

この国では死生観は思い込みの類でしかない。
国民一人一人が自分で考え、こしらえる。
文化的な背景を持って考える土壌があるかどうかは極めて怪しい。

NHKのスタッフは安楽死の議論を主導するために、老女にくだんの発言をさせたのだろうか。
考える材料としてあえて提示した可能性は否定できない。

信仰を問われると、多くの人が「無宗教」と答える。
これが私たちの社会だ。

死生観を確立する上で宗教は避けて通れない領域。
にもかかわらず、なぜか日本では触れることが憚られる。

人間はどう生き、どう死ぬべきか。
この点についての合意形成が誠に難しい。
だから、今のような混乱が起きている。

私たちが生きているのは「死生観に触れないようにする社会」だ。
ここでも建前ばかりが横行している。
自国の宗教や歴史を忌避している限りは死生観の確立はおぼつかない。
結果的に財源の無駄遣いが続いていく。
基本方針が明確でないのだから、やむを得まい。
だが、日本がずっとそうした形を取ってきたわけではない。
少なくとも戦前の社会は今とはまるで違っていた。

もちろん、「戦前の日本の全てが正しい」などと言うつもりはない。
とはいえ、死生観は確かにあった。

国家権力が死生観に手を突っ込むのもよくない。
先頃、その好例を見せつけられた。人間がどういき、死ぬかのコンセンサスを得にくい。
だから、今のような混乱が起きている。
ロシアのプーチン大統領がウクライナに派遣された兵士の母たちにこう語りかけたのだ。

「交通事故で毎年3万人が死亡する」「人はいつかは死ぬ」

言うまでもなく、これは戦死の美化だ。
戦争協力への要請と言ってもいい。価値観の押し付けはいかにも危うい。

合意形成に苦慮せざるを得ない社会は当分続くのだろうか。
だが、一方で情報インフラは整いつつある。
情報発信における民主主義はようやく達成できそうだ。

その証左がある。電通の存在感が弱まってきている。
かつてのような統制は望むべくもない。
なぜか。

中には陰謀論を持ち出す向きもある。
だが、広告業界にいた人間から見れば、理由は明快だ。

レガシーメディアと呼ばれる大新聞やテレビ。
単一の媒体で大きな影響力を発揮できた時代がついこの間まで続いてきた。
元締めとして暗躍していたのが電通である。

レガシーメディアの現状はどうだろう。
大新聞は部数が激減。紙の新聞を定期購読している人は今や少数派だ。
地上波のテレビも同様。
可処分時間の争奪戦でSNSやコンテンツ配信サービスなど、ネットの風下に立たされて久しい。

新聞広告やテレビコマーシャルの力も相対的に衰えた。
もはやかつてのように「モノを売る」だけの勢いはない。

単一の媒体が主導権を握る。そんな「情報の独裁体制」は崩壊した。
その体制下で盟主の座をほしいままにしてきた電通は環境の激変でジリ貧に陥っている。

ラスベガスが安全なのはマフィアが牛耳っている賭場だからだ。
マルコス体制のフィリピンでは「誰に贈賄すればいいか」がはっきりしていた。
電通独裁体制も似たようなものだ。

専制が終焉を迎えると、混沌が出現する。
中には「独裁のほうがましだった」と郷愁を覚える人もいるだろう。

独裁者不在の移行期的混乱。
そんな環境にあって、岸田内閣は哲学を持って国民が死生観を醸成できるような風土を作れるだろうか。
きちんとしたデータに基づき、戦後の社会はどの国の影響を受け、今の姿があるのか。あからさまに議論する必要があるだろう。

それにつけても、合意形成は難しい。まだまだ感情に流されやすい人も多いからだ。
感情の中でも最も強いのが欲と恐れだ。この二つをうまく使われると、人間はつい動かされてしまう。

政治家の責任はより重みを増している。首相をはじめ、閣僚たちにその自覚はあるだろうか。
日本は危険なところに来ている。
舵取りをを間違うと、本当にまずいところに誘導されかねない。
一国の指導者たる者には自身の哲学を明らかにする義務があるのではないか。
その哲学は恐らく死生観にも通じる。

「私は語らない。他の方の哲学を聞くだけです」

そんなトップは困りものだ。
死生観はその人個人に帰結する。財産目録のようなものだ。

哲学にせよ、死生観にせよ、本来は極めて個人的な見解である。
一般の国民が大っぴらに語る必要はない。だが、政治家は別。

自分はどう死にたいのか。
今こそ、政治家は口を開くときだろう。
国の舵取り役を吟味する上で重要な要素となるはずだ。
一見、迂遠にも思えるが、そうした課題を問題視できる社会にする必要がある。
自立自尊への道程には欠かせまい。

政治家は哲学を持たなければならない。
官僚には能力と技術が欠かせない。
無能であっていいとは思わないが、政治家は技術に走らなくてもいい。
哲学に基づき、国民に信を問う。
「その手の話をすると、ボロが出る」とばかりに技巧に走るのはやめてもらいたい。

哲学の不在がこの国の危機を招いている。
人口は減少し続けていく。経済指標や社会指標はマイナスばかり。
根本原因はどこにあるのか。もはや明らかだろう。

ツイッターがある以上、国民の多くは談論風発に加担できる。
電通が力を失った今、よいデジタル民主主義の基盤ができれば、よい国づくりは可能だ。

美徳のある人がまだ生きているうちに、議論によって高みに達してはどうか。

Photo licensed under the CC0.

  • URLをコピーしました!